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「タイ、国際交流基金の記事レポート」 (訳:ムティター・パーニッチさん)

2007年3月4日(日)    The Sunday Nation Page A1 




2007年3月11日(日)    Dailynews 新聞 

 

ドンバン&馬路村

 「ドンバン村」 は今、薬草の村として知られている。平日や休日とは関係なく、少なくとも1グループの訪問者がいるようになったのだ。
  しかし、その日の午後は特別な訪問者がいた。日本の高知県の小さな「馬路村」 からの村人だった。 単に遊びに来たのでなく、村の存在のために戦った経験を語り合ったのだ。 
 馬路村は「ごっくん馬路村」というゆずジュースがあって、徐々に市場に広めていき、村 を維持してきた。 一方、ドンバン村は米作りから果樹園、そして薬草の生産に至り、国の中で一番 木の種類が揃っている村の一つであるように言われている。そして薬草を一番たくさん出荷しているところである。その背景には、Abhaibhubejhr 病院が後押ししているのだ。 
 ごっくん馬路村を日本全国に広めた馬路村農協組合長、東谷望史氏は村の伝説にな った。大歳昌彦氏が村に入って取材し、「ごっくん馬路村の村おこし」の主人公にして 話を詳しく語っていた。 
 農薬を使わず見た目のよくないゆずが、東谷氏や村人によって加工され、東京のような大都市へ売りに行くなどを経て直販に至った。ごっくんは村の活気を取り戻してくれた。
 都会に働きに行った村民が戻り始め、他の地方の若者も村に入ってきた。小さな 馬路村から新しい商品がどんどん出てきた。
  東谷氏が馬路村の伝説になっているが、ドンバン村にはサマイ・クーンスックが いる。薬草の使い方を村の長老から受け継いで、現在ドンバン村薬草栽培グループのアドバイザーになっている。柚子しかない馬路村でも成功できたから、農業の要素が揃っ ているドンバン村なら成功は手に届くでしょう。 
 ドンバン村は薬草を栽培するだけでなく、薬草に興味あって、実際に栽培されているところに入ってみたい観光客を歓迎し、村の伝説を伝え、薬草が入っている様々な料理を出してくれる。
 詳しくは プラジーンブリ県ドンキレック町ドンバン村へお問い合わせください。 
 08-7600-8842, 08-7087-5039                            Aticha Chuenjai

 

2007年3月11日(日)    Bangkokbiznews 新聞  Page C2

  Life-LifeStyle

 地域の知恵チャンピオン:ドンバン村VS馬路村

 自立の道を歩きたい人には「地域の知恵」と「自給自足」を一緒に見ないといけないことになっている。
                                     記者:Bussakorn Pausae

 資本主義が撤退している中、自立主義が芽生えてきた。タイの農民はこの方針で問題解決、地域開発を行い、生活や経済が安定してきた。地域のHOW−TOができ、地域の「プロ」が数人出てきた。
 同時に、先進技術を持っていることで有名になっている日本。そこにも農業がどこにも負けない強さを持っている。そこには昔からの知恵と新しい技術を取込んで、特に経営、マーケティングの見本になっているところがある。
 タイも日本も面白い知恵を持っているので、見比べると面白いかもしれない。今回はタイのドンバン村と日本の馬路村で見てみたい。

 サマイ・クーンスック:ドンバン村薬草栽培グループの創設者、現在アドバイザーを勤めている 

 -ドンバン村の出発点-
 プラジーンブリ県、ドンキレック町ドンバン村は元々観葉植物を栽培し、全国に出していた。それ以外に薬草を栽培してもう少し村人の収入を上げたいと思い、アパイ・プーベット病院の運営に関わっているスパーポーンさん(薬剤師)に相談した。了解してもらったが、無農薬の上、有機栽培でちゃんと栽培から収穫、出荷までの品質保証や有機農業の基準をとらなければならないことになった。 

 -なぜこの取り組みをしようと思ったのですか? 
 資本主義によって農民が農薬を使って問題を解決するようになった。簡単でいいとみんな言っていたが、昔の自然のやりかたもちゃんとあった。
 今ご飯を一口食べるとき、外国のものが何粒入っているかいつも思う。肥料も外国のもの、草殺剤も外国のもの、ホルモンも外国のもの、ガソリンも外国のもの。自分たちのものはほとんど何もない。土地だけは我々のもの。しかし最近外国のものになって、土地を借りて米を栽培しているところもある。結局口の中のご飯でも自分のものではない。 

 -運営のやり方を教えてください
 最初はラヨーン県ワンジャン郡の伝統医療法センターで研修を受けた。その後はドンバン村のグループを作って、病院に薬草(原料)を提供することにした。その際、農業銀行から人材を派遣してもらって、運営や経営のことを教えてもらった。 
 当時 1997年はメンバーが 30〜40人いたが、今は12人しかいない。一部の元メンバーは資本主義の方法に慣れてしまい、農薬を止めると植物がよく育たない、売れないと思ったから。本当は同じ野菜で同じ値段で売っても、有機農業をした方が作る人の健康がいい。グループのやり方としては、みんな自分のところでばらばらに薬草を栽培し、収穫してから集め、一緒に洗ったり、切ったり、乾したり、乾燥させたりする。メンバーは作った分のパーセントをもらう。グループ運営費はメンバーから10%取る。 
 9年間みんなずっと頑張ってきた。最初は一人400B〜1000Bの収入しかなかったが、今は 4万バーツも入る月がある(栽培する面積による)。今は最低1人15000B の収入があるので、農家としては少なくない。 

−その変化と成功の背景には何があったと思いますか? 
 運営のやり方だと思う。システム的にやって、グループと病院にちゃんとした契約を結ぶこと。例えば今年の場合、グループに200万バーツ以上の収入が入ることが分かっている。これでみんな100%安心できる。観葉植物しかやらなかったときはいつお客さんが来るか全く分からなかった。今になって薬草からの収入がメーンになってきた。

 −ドンバン村の将来をどう考えていますか? 
 村は将来有機農法の観光、研修の村になる。我々の生活は自然と密着しているから、ホームスティ制度を導入し、観光客に民家に止まってもらう。森を体験してもらう。そうなるともっと広報活動をしなくてはならない。タイの生活風習を外の世界に伝えて付加価値をつける。アパイ・プーベートというブランド以外のブランドで覚えてもらいたい。 

 今ドンバン村の人はどこにも出て行かない。逆に外から人が住みに移動してくる。今、村人が自給自足生活をして、快適に過ごしている。我々は少しずつ成長していき、政府の変な援助で成長した訳ではなかったので、しっかりしたベースがあり、ずっとドンバン村の特徴になってきた。 

 

 東谷望史 馬路村農業共同組合長 


 −馬路村の出発点 
 馬路村は日本の高知県にある。昔みんな林業をしていたが、ここ30年では貿易自由化によって輸入した木材に圧倒され、林業がなりたたなくなった。 
 その後、みんな柚子を栽培することになった。柚子は柑橘類で実の汁はすっぱい。しかし村に残っている農民はほとんど年配の人で柚子の世話をよく出来なかった。全く農薬を使わないことによってできた柚子は大きさもばらばらで見た目はよくなかった。
 農協のメンバーとして柚子の加工品を考え出した。料理用の柚子酢や柚子ジュース 「ごっくん馬路村」を作った。柚子の搾り汁を大きな会社に売らないことにした。そのままで売ると豊作のときに値段が下がってしまう。 

 ‐どのように商品を売ったのですか? 
 似たような商品が市場に出ていたから 「ごっくん馬路村」のような新しい商品は簡単に売れなかった。それでもみんなで頑張って産直をやってきた。注文は葉書、手紙、電話などあらゆる手段を使った。現在、日本全国に35万人のお客さんがいる。そして関西地方のデパートにも商品を置くことができた。 

 -マーケティングのコツを教えてください。 
 すべては各部門のプロと一緒に計画を作る。営業の人、広報の人、デザイナーなど。できるだけお客さんが欲しい商品を作って目に届くところに持っていく。その一つはテレビのCM 。値段は高いが、他のCMと違って馬路村の生活をそのまま出して、みんなに伝えた。つまり、田舎をまるごと売ったともいえる。CMのお金は農協が出した。結果としてその年にごっくん馬路村の売り上げが100万本に昇った。 
 お客さんのオーダーを取るためにコール・センターを作った。そして各地域に売りにいくと、村の様子を伝えるポスターやCDを配った。2003年には東京にある東急百貨店に出展して、特別村民制度を設けた。特別村民は村に来ると、村長の部屋でごっくん馬路村が1本ただで飲めるという特典がある。他に村から特別村民の広報を年1回送ることもある。そのときに1000人もの人が特別村民になってくれた。 
 そして本当に村に来る人が23人いた。今は特別村民が2500人いて、250人が村を訪れた。昨年、馬路農協の売り上げが 32億円(約10億バーツ)。 


−ドンバン村の将来をどう考えていますか? 
 柚子の新しい加工品をどんどん考えて行きたい。それによって村で雇用の枠が増える。例えば柚子の種で作るローション、1リトルで 5000円(約2000バーツ)もする柚子オイルなど。今でも若者が村に入って仕事をしてくれている。村を出て勉強してきた Uターン組みや他のところから来た Iターン組もいる。これで馬路村の市場を大きくしてヨーロッパや他の地域へ進出したい。 
 これから馬路村の若者が商品開発などに参加して、商品の品質を保っていき、お客さんがみんな口コミで広めてくれることを期待している。 

 

 

2007年3月19‐25日     Manager 週間新聞

   日本−タイ グローバル化の中の元気な村

 この最近、タイのOTOP政策のモデルになった日本の馬路村と タイプラジー ンブリ県ドンバン村の交流会があった。お互いの経験を交換して、グローバル化の中に元気を保つ、地域性を保つ村のあり方をドンバン村が馬路村から学んだ。
  馬路村は村が崩壊しないように戦い続けたが、ドンバン村は農薬に依存する農業から有機農業へ転換するように戦っていた。

 馬路村農業共同組合長 東谷望史 が教えてくれた。現在の馬路村に至るまで30 年以上かかった。村で栽培されているすっぱい味がする「柚子」という柑橘類を全国に広め、アメリカやヨーロッパまで市場を広めたいと言った。
  東谷氏が村開発の道を教えてくれた。昔馬路村には森がたくさんあって、ほとん どの人は林業で収入を得た。しかし日本政府が貿易自由化を許してからその収入がどん どん減り、村で栽培されていた「柚子」に目を向けた。村の1200人の人口はほとんど年配の人や子供なので、柚子の手入れがよくできず、柚子の実そのまま出荷するよりは加工品にした方がいいと思った。安心に飲めるジュースを作った。
 そして村の農家たちで組合を作った。昔は大手卸問屋を通して売ったが、商品がだめになったり、予定より遅れて送ったことなどの問題で、産直のシステムを取り込む ことになった。

 東谷氏がすべてのネットワークを生かした。街に出稼ぎに行った村の若者でデパ ートで働く子に売ってもらうなど。お客さんが柚子ジュースの味に気に入ってくれた。 それと同時にずっと商品開発をしていた。商品と一緒にアンケートを入れてお客さんの 満足度を計った。品質のいい商品にお客さんが口コミで広めてくれて、成功の元となっ た。

 市場にニーズが増えると、大きな百貨店でも問い合わせてくれた。現在日本全国 に35万人のお客さんがいるという。

 そのお陰で、馬路農協は他の村にできない素晴らしい工場を持っている。施設や 設備が整って柚子のすべての部分を加工できるようになった。 柚子の皮は肥料に、実を搾って汁をジュースやポン酢に、そして種は化粧品に使った。日本の大手化粧新メーカ ーの研究結果で皮膚の老化を防ぐ効果があると分かったからだ。柚子の種から取れたオ イルもう1リトル 2000バーツくらいのいい値段で売れるようになった。

 昨年、馬路村農協の柚子加工品の売り上げが10億バーツ以上になり、80人の雇用ができたという。

 馬路農協の商品宣伝はいろんな手段を使った。日本全国各県に散らばっているお客さんにテレビCMに登場してもらい、本当に使った商品に対する感想を言ってもらっ た。
 それに、馬路村の雰囲気がたっぷり入っているポスターを大都市にはって、都会で働く若者たちへのメッセージを送った。
 そして地方地自体からも協力を得た。馬路村役場の木下彰二によると、役場は村の観光を応援している。都会で祭事を行う度に特別村民を募集し、現在インターネットでも募集している。特別村民は今2500人に昇って、250人が村長室で柚子ジュー スをただで飲んだ。この試みで観光客がどんどん入ってきて、ホームスティで泊まり、 村の商品を購入することになる。

 馬路農協の成功は 地元のリーダーと農協メンバーの頑張りから生まれたような気がする。試行錯誤で商品を開発し、お客さんに認められた商品になった。そして村を愛する心でできた商品を自分の職場に持って売った。リーダーのネットワーク作り活動で他の村とも協力することができた(ポン酢と海苔の例)。

 一方、プラジーンブリ県ドンバン村は、OTOPモデル村、有機農業薬草観光村になり、今後馬路村と同じように成功していけるとみられている。ここでは農薬を使わない農家たちが集まっているが、理解して協力する人もいれば、全く理解できていない 人もいるという。

 ドンバン村が栽培した薬草は、アパイ・プーベット病院財団が買い取っている。 それを加工して「アパイ・プーベット」のブランドで全国に売っている。
 アパイ・プーベット病院財団 のスパーポーン・ピティポーン氏とドンバン村薬草栽培グループの創設者、現在アドバイサーを勤めているサマイ・クーンスック氏によ り、ドンバン村では薬草の使い方の知恵を持っていてる強点がある。そして村人は自然 に生えている草でも料理に使ってしまう腕をもっている。

 ドンバン村の目標は、できるだけたくさんの薬草の種類を栽培し、生きる博物館になること。そしてこの活動を町のレベルに広めたいという。

 

2007年3月26日(月)     Manager 新聞 Page 5

  

   ドンバン-馬路

  自給自足の上の村発事業

 

 

 

 

 

 

 

         サマイ・クーンスック 薬草グループのアドバイザー

  この2つの村は地理的に全然違っても、似たところがある。それは、自給自足の方針を強く握りながら事業を起こしたこと。小さなグループの村人から生まれた知恵によって、農業の道が拓かれ、商品の品質が外部に広く伝わった。

  プラジーンブリ県の有機農業薬草観光村−ドンパン村と日本の柚子の加工品を作る-馬路村。両方が利益に走るではなく、村人の生活を大事にする村。生活風習、言語、文化が違っていても、農業で村を元気にする共通点を持っている。

     馬路村農業共同組合長 東谷望史

 ブラジーンブリ県ドンバン村の出発点は、ケーオ・ムックダーさんという薬草師の知恵からだという。現在は3代目のサマイ・クーンスック氏がドンバン村薬草グループの創設者(現:アドバイザー)がリーダー役を務める。この村は元々森だったので、いろんな種類の木であり、取れた薬草の品質はとてもいいという。それに「観葉植物栽培の村」として地方レベルで表彰されたこともあった。

   マッサージ・ボールに使う薬草

  2000年には「ドンバン村薬草グループ」が誕生した。メンバーで自給持続農業の重要性を感じ、アパイ・プーベート病院へ薬草を出荷することでもっと安定した収入が得られると思ったから。ただし、栽培のすべての過程で有機農業と品質保証を行う必要がある。メンバーは栽培方法を改良し、現在23種類の薬草を出荷している。

   ドンバン村のマッサージ・ボール

  農薬を一切使わない有機農業のモデル村になっているため、ドンバン村は現在「薬草観光村」にもなった。「バン・ドンバン」いうブランドで伝統的な商品を販売している。例えばマッサージ・ボール、マッサージ・オイル、薬草石鹸など。マッサージ・サービスも行っている。それに少年ガイドで村を案内するサービスもある。

 

     ドンバン村へようこそ

  一方、日本の馬路村では、柚子の加工品を作っている。馬路村農協組合長、東谷望史の考えによってたくさんの商品が生まれた。馬路村農協は柚子の苗を作って農家に販売したが、柚子が豊作になった年は値段が落下した。一方貿易自由化によって外国の木材が安い値段で売られたことにより、馬路村の林業が撤退した。馬路村農協が日本各地の祭事、主に関西地方のイベントに参加した。葉書・手紙・電話での注文も受けていたが、農家に安定した収入を与える売上げは確保できなかった。

 

   ドンバン村の薬草から作った商品

 1983年、東谷氏が農協の販売課長になり、柚子の加工、販売を担当した。近くのお客さんにチラシを配り、「ごっくん馬路村」というジュースを開発し、地元デザイナーによるラベルは馬路村の雰囲気をよく出したことによって、ブランドはヒットになった。

 

   ドンバン村の薬草畑

 地元の農産物―柚子から日本全国で有名になった加工品へ。甘酢っぱい、飲んですっきりして元気になるドリンクは、現在35万人のお客さんがいて、年間33億円(約10億バ ーツ)の売り上げをあげている。

    マッサージ・オイル

 両村の村の協力体制、昔からの知恵が証明した。村人の協力、やる気によって小さなことを社会に発信して、消費者に認められることは必ずできる。

 

柚子ジュース「ごっくん馬路村」      甘酸っぱいごっくんをどうぞ

  ***ドンバン村薬草グループ 電話 : 087-600-8842 087-087-5039***

   

        2007年4月10日 (火)     Post Today 新聞

   村と結婚した男

  Wiratee Sri-on media4joy@hotmail.com

  www.happymedia.blogspot.com

 日本の山奥にある馬路村。街から遠く、国道が通らないところ。柚子が豊作になったときに、誰も目をくれなかった。

 “村から出て行く人が多くなった。このままだと子供と年寄りしかいない。どう すれば村が自立できて、都会を追っていかなくてもいいようになるのかな。”

  一人の男が考え込んだ。村の元気を取り戻したい。じっくり考えると自分の村にはいいものがたくさ んある。単に他の人に伝えていないだけなのだ。

 この村には柚子をたくさん栽培してあった。ただ、山の多いところなので、山の斜面で栽培するところが多かった。柚子は大きなとげがあり、大きいもので4センチにもなるという。それに、村には子供と年寄りしかいない。柚子の手入れは出来るわけない。
  だから、馬路村の柚子は見た目がよくない。実のまま出荷すると、だれも買いた くないでしょう。
  “しかし、農薬を使わないことが特徴にもなるのでは”と男が考えた。“我々の柚子は美味しい空気で、川の上流の水で育てられ、農薬が混ざっていない。この美味しさは都会の人が懐かしく思うでしょう”

  そう思うと、何人かの友達を誘って加工品を作ってみた。試行錯誤で頑張って商品を作ってみた。結果としてできたのは、村の特徴を全面的に出す商品となった。

  一から二、二から三、現在馬路村の商品が数十種類になり、大ヒットになった。 県の特産品トップ10に6種類も入り、注文がどんどん入ってくる。始まった当時と比べると10倍にもなる。そして村起こしに熱中する日本人、外国人の交流の場になっ て、観光村にもなった。

  その男が昔のことを思い出した。経費節約のために村から夜中トラックを出して朝街に着き、その後一日中お客さんを呼んでも誰も買ってくれなかった。そう思うと、 今の幸せに微笑みがこぼれた。
  特に、農家にとってノーベル賞のような朝日農業賞をとったときを思い出すともっともっと感激した。村人数人が叫んでいた「この村に生まれてよかった」聞いた人は涙が出るほど感動した。

  その男は東谷望史氏。何も偉い肩書きもなく、「村を愛する心」でここまでがんばってきた。「村と結婚した男」と呼ばれたくらいだ。

  馬路村が成功のモデルになって、各地から見学者が村に入ってきた。経験を積んできた一村人が講師となった。
  東谷氏が村の取り組みを説明する度に目が輝いていた。何度話しをしても飽きない。
  ふと思って、私は自分に聞いてみた。私たちは生まれ故郷に、このような取り組 みをしたことがあるのか

  “田舎は都会が忘れていた何かをもっている。田舎作りは田舎のいいところを伸ばすことだ。田舎というのは、売りにできるポイントである” 村と結婚したこの男は私たちにそう伝えたかったのだろう。

  馬路村の人々の協力によって積み上げられた経験は、私の心にあった小さな火に勢いを足してくれた。
  “住民の参加なしでは、街は加速的に変わってしまう。”有名な社会学者の言葉が頭によみがえってきた。
  学者や運動のリーダーのみではなく、住民一人一人に力がある。どうすればみんなの力を「何か」を通して発揮できるのか。

  “地域参加には 自分の好きなことをキープするのではなく、地域の人に自分の力 を分かってもらうことである”その学者が主張した。
  都会の問題として “私の問題ではない”ということがよく見られる。他の人に何が起こっても知らない。私は無事であるだけでいい。あなたの家の前にゴミがあってもいい。私のところになければいい。

  地域参加の気持ちを起こすには “みんなの問題”を作り出さないといけないで しょう。

  難しくても、一歩踏み出すことが必要になる。アパイ・プーベット病院のスパーポーン・ピティポーン氏(薬剤師)、薬草の栽培をしている「ドンバン村」を薬草観光村にするリーダーの一人が教えてくれた。その一歩は原点に戻ること。みんな共感を持つと「グループの力」が自然に生まれてくる。

  “村人が一緒になって一緒に勉強することだけでも価値がある。仕事が成功してもしなくても”と最後に述べてくれた。

  同じように、スラジット・シラウェット、メークロンを愛する会のリーダー、サムット・ソンクラーム県商業会議長が“メークロンの人”という本に書いた。

  “我々メークロン人がいくつかのグループになって、地域を守る活動をした。みんなが問題意識をし、一緒に問題解決に取り組んだ。西洋の開発の流れに囲まれても、 我々メークロンの人は自分たちの領域で問題解決に取り込めることに希望がある。そして同時に外部の人に伝えたい。メークロンの人は、地域にたくさんの木、川、美味しい空気を守りたい。静かで過ごしやすい、自分の特徴を維持する町にしたい。この国の最後の「東洋のベニス」になりたい。世界の流れに逆らって、自然の流れに沿って行きたい”

  「自分の地域を理解する」ことによって、自分流の出発点が出てくるかもしれな い。

  一から二、二から三、どんどん増えていく。めげない気持ちで。

  私は結婚する準備ができた。 あなたは?準備できましたか?

  (馬路村のことは Suan-ngoen Meema 出版の「ちっちゃな村のおっきな感動物語」を読 んでください)